プレッシー対ファーガソン事件とは
プレッシー対ファーガソン事件(Plessy v. Ferguson, 163 U.S. 537)は、1896年にアメリカ連邦最高裁判所が、白人と黒人の鉄道車両を分けるよう定めたルイジアナ州法は合衆国憲法修正第14条の平等保護条項に反しないと判断した事件です。設備が「平等」でありさえすれば分離してもよいという「分離すれども平等(separate but equal)」の法理を打ちたて、その後約60年にわたって南部のジム・クロウ法による人種隔離体制を支える法的根拠になりました。日本の憲法の授業でも、平等原則を考える代表的な外国判例として取りあげられます。
- 事件名
- Plessy v. Ferguson, 163 U.S. 537
- 判決日
- 1896年5月18日
- 結論
- 7対1、人種分離は合憲
- 克服
- ブラウン対教育委員会事件(1954年)
事件の背景
ルイジアナ州は1890年、鉄道会社に白人と「有色人種」に平等だが分離された車両を用意させる分離車両法を制定しました。ニューオーリンズの市民団体はこの法律を争うためのテストケースを計画し、1892年、8分の1が黒人の血をひくホーマー・プレッシーが白人用車両に座り、逮捕されました。一審のジョン・ファーガソン判事が州法を合憲としたため、事件は連邦最高裁まで争われました。
法廷意見と反対意見
| 意見 | 内容 |
|---|---|
| 法廷意見(ヘンリー・ブラウン判事) | 修正第14条は法の下の平等を保障するが、社会的な平等や人種の混合までは強制しない。分離が劣等の烙印だと感じるのは、黒人側の受けとめ方にすぎない。 |
| 反対意見(ジョン・マーシャル・ハーラン判事) | 「われわれの憲法は肌の色を問わず(color-blind)、市民の間にいかなる階級も認めず、許さない」。この判決はドレッド・スコット判決と同じくらい有害なものになるだろう。 |
ただ一人の反対意見は、58年後に正しかったと認められました。ハーラン判事の「憲法は肌の色を問わない」という一文は、当時は少数意見にすぎませんでしたが、のちの公民権運動や平等をめぐる判決で、もっとも多く引用される言葉のひとつになりました。
ジム・クロウとブラウン判決
判決後、南部の州は学校、レストラン、トイレ、バスにまで分離を広げ、黒人用の施設は実際にはほとんど「平等」ではありませんでした。1954年のブラウン判決で連邦最高裁は全員一致で「公教育において分離された教育施設は本質的に不平等である」と判断し、公教育についてこの法理を否定しました。その後、1964年の公民権法が公共施設での差別を禁止しました。
よくある質問
- なぜ7対1なのですか?
- 9人の判事のうちデイヴィッド・ブルワー判事が審理に加わらず、8人のうちハーラン判事だけが反対しました。
- プレッシー判決は正式に覆されたのですか?
- ブラウン判決が公教育で「分離すれども平等」を明確に否定し、その後の判決でほかの分野でも事実上否定されました。
- ファーガソンとはだれですか?
- 一審を担当したルイジアナ州刑事裁判所のジョン・ハワード・ファーガソン判事です。
参考文献
- Plessy v. Ferguson, 163 U.S. 537 (1896).
- Brown v. Board of Education, 347 U.S. 483 (1954).
- Lofgren, C. A. (1987). The Plessy case: A legal-historical interpretation. New York: Oxford University Press.
