古典的な議論:悪循環とビッグ・プッシュ
ヌルクセ(1953年)は「貧しい国は貧しいがゆえに貧しい」という言葉で「貧困の悪循環」を説明しました。所得が低ければ貯蓄が少なく、貯蓄が少なければ資本が不足して生産性が低く、再び所得が低くなる環が続くというのです。需要の面でも市場が小さく投資の誘因が乏しくなります。ネルソン(1956年)は、所得が少し増えても人口増加がそれを相殺して1人当たり所得が元の水準に戻る「低水準均衡の罠」をモデル化しました。これはマルサス的メカニズムの現代版です。ローゼンシュタイン=ロダン(1943年)は、多くの産業が互いの需要をつくり出すので一斉に大規模な投資をしてはじめて工業化が可能になるという「ビッグ・プッシュ」理論を示し、マーフィー、シュライファー、ヴィシュニー(1989年)がそれを複数均衡モデルとして定式化しました。
複数均衡とミクロのメカニズム
現代理論では、貧困の罠は「複数均衡」として理解されます。アザリアディスとスタフルスキー(2005年)がまとめたように、標準的なソロー・モデルでは貧しい国ほど速く成長して収束しますが、生産に閾値効果や規模に関する収穫逓増があれば、一定の資本水準より下の経済は低い均衡にとどまり、上の経済だけが高い均衡へ進みます。個人レベルでは栄養の罠が代表的です。ダスグプタとレイ(1986年)は、貧しすぎて十分に食べられなければ働く力がなく所得を得られないという循環をモデル化しました。信用市場へのアクセス制約のため収益性の高い投資や教育投資ができない場合や、リスクに耐えられず安全だが収益の低い選択しかしない場合も罠をつくります。ムッライナタンとシャフィール(2013年)は、欠乏が注意力と認知資源を消耗させ長期的な決定を難しくするという心理的メカニズムを示しました。
援助論争と実証的証拠
サックス(2005年)は、最貧国は罠にとらわれているので保健、農業、インフラへの大規模援助というビッグ・プッシュが必要だと主張しました。一方イースタリー(2006年)は、上から計画する大規模援助はむしろ失敗を重ねてきたし、国家レベルの罠の証拠は弱いと反論しました。この論争は近代化論と従属理論以来の開発論争を引き継ぐものです。バナジーとデュフロ(2011年)は大きな理論の代わりにランダム化比較試験で具体的な介入の効果を検証しようと提案し、この功績でマイケル・クレマーとともに2019年にノーベル経済学賞を受賞しました。クレイとマッケンジー(2014年)は、国家レベルの罠の証拠は限られるが、特定の地域や集団では罠が存在しうるとまとめました。バナジーら(2015年)は6か国で、最貧困層に家畜のような生産資産と訓練、生活支援をあわせて提供する「卒業プログラム」が持続的な所得向上をもたらしたと報告し、バルボーニら(2022年)はバングラデシュのデータで、資産が一定の閾値を超えた世帯だけが貧困から抜け出すパターンを見出して、個人レベルの貧困の罠の存在を支持しました。
よくある質問
- 貧困の罠を簡単に言うと?
- 貧しいと貯蓄、教育、健康に投資する余裕がなく再び貧しくなる悪循環が生じ、一定以上の助けがなければ自力で抜け出しにくい状態のことです。
- 貧困の罠は本当に存在しますか?
- 国全体が罠にとらわれているという証拠には論争がありますが、近年のフィールド実験は、最貧困世帯のレベルでは資産が一定の閾値を超えなければ貧困から抜け出せない罠が存在しうることを示しています。
出典確認日:2026-10-26
参考文献
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